日露戦争はなぜ始まったのか? 日清戦争で日本が勝利した直後にもかかわらず・・・


 

1904年、日露戦争が始まったきかっけとは・・・

 

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ロシアが勢力を拡大していくのを警戒し、なおかつ清に多くの租借地を持っていたイギリスが、ロシアに自分たちの権益を侵されたくなかったこともあり、1902年、日本と日英同盟を結びます。

この同盟の内容は、「締結国が他の1国と交戦した場合は、同盟国は中立を守り他国の参戦を防止する。
2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦する」、というものでした。

日英同盟の内容を知ったロシアは、3回に分けて満州を引き上げると約束したのですが、1回引き上げただけで、2回目以降はこの約束を実行しませんでした。

それで日本側は、満州でのロシアの権利を認めるので、朝鮮での日本の権利を認めてもらうよう提案しましたが、結局ロシアにその提案は受け入れてもらえませんでした。

ですから、朝鮮がロシアの支配下になるのならば、いずれロシアは日本も支配下に入れるだろうと判断した日本側は、遂にロシアとの戦争を決意しました。

 

 

ついに日本がロシアに宣戦布告!日本がとった作戦は?!

 

1904年、日本はロシアに宣戦布告をし、日露戦争が開戦されました。

日本よりも何倍もの軍事力があるロシアに勝つために、資金も十分になかった日本がとった作戦は、まず早い段階でロシアに圧勝し、それから講和条約を結ぶというものでした。

資金調達では、まず戦時外債を募集したのですが、それも買う人は誰も現れませんでした。

それで、当時の日銀副総裁・高橋是清(たかはしこれきよ)が、日英同盟を結んでいイギリスに渡ったところ、イギリスでその外債を買ってくれる資本家が見つかり、これによって軍事資金を貸してもらえることになりました。

 

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それから、勝利して講和条約を結ぶのときのことを考えた伊藤博文は、ハーバードに留学していた時にセオドア・ローズヴェルト大統領と親交があった、金子堅太郎(かねこけんたろう)をアメリカに渡らせて、アメリカの世論が日本よりになる工作を行うように命じました。

 

 

まず、清の旅順港でのロシアと日本の戦いの行方は・・・

 

さて、日本の連合艦隊が旅順に向かったところ、旅順(りょじゅん:遼東半島の一部)は、三国干渉によって日本が清に返した後、ロシアの軍事基地となっていました。

戦艦から旅順を攻撃するけれども、上手くいかないので、陸上からの攻撃に切り替えると、指揮官に乃木稀典(のぎまれすけ)が任命されて、作戦も変更していきました。

乃木は、日清戦争の時に旅順を攻略してしまった経験を持つ人ですが、ロシアによってコンクリート製の強固な要塞が作られていた旅順は簡単には攻略できません。

 

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そこで、今度は旅順にある203高地という小さな山からならば、旅順港を砲撃できると考えた軍の本部が乃木に対して、203高地を攻略せよと提案します。

 

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そして、乃木は優秀だった総参謀長・児玉源太郎(こだまけんたろう)の力を借りて、203高地を占領することができました。

作戦通り、頂上からの砲撃によりロシア艦隊を殲滅することができましたが、この旅順攻略で日本軍は6万人もの戦死者を出すことになりました。

 

 

日本海に迫ってきたロシアの世界最強バルチック艦隊と、日本艦隊が戦った結果・・・

 

旅順攻略は出来たけれども、ロシアにはまだ最強艦隊といわれるバルチック艦隊があり、1904年10月15日、そのバルチック艦隊がついに動き出し、日本海に約7ヶ月かけてたどり着きました。

 

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疲れきった状態で日本海にたどり着いたバルチック艦隊を待ち構えていたのは、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)率いる日本の連合艦隊でした。

7ヶ月もの間、日本側は砲撃の特訓をしていたのでした。

東郷平八郎と戦略家の秋山真之(あきやまさねゆき)らの作戦によって、日本軍は世界最強の艦隊を相手に勝利しました。

 

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この日露戦争では、日英同盟を結んでいたイギリスは表面的には中立を装いながら、諜報活動やロシア軍への妨害工作、武官の派遣などで日本を支援したそうです。

軍事的な勝利を得た日本ですが、当時の国家予算が2億5千万円の中、調達した軍資金18億円のうち、この時点ですでに15億円も使っていました。

それで、日本は最初の作戦通りに、早い段階での講和条約を結ぼうと、予め申し入れていたアメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトに仲介をしてもらい、ポーツマス条約を結びます。

  

 

最終的に、ロシアと講和条約を結ぶのですが・・・

 

ところが、この条約の交渉は、戦争とは違って、思った通りにはいきません。

ロシア側もなかなか負けを認めず、日本側もこれ以上戦うことは難しい・・・そこで、戦争賠償金はいらないので、その代わりに朝鮮での日本の優越権や南満州鉄道の一部と、南樺太を譲渡してほしいと要求しました。

そして、この妥協案によって、日本とロシアの交渉は成立したのでした。(ポーツマス条約)

 

 

 

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日清戦争になったきっかけは、何だったのか?!!

 

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アジアの領域を求めて、南に降りてくるロシア

 

 

 

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日本が幕末だったころ、世界の情勢は、西洋列強がアジアの国を次々に植民地化しており、日本も植民地化しようとしていました。

けれども、1871年12月から1873年9月まで、岩倉使節団アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国へ視察に行って、たくさんの情報も得た結果、明治政府はヨーロッパ諸国は日本を植民地にする気はないが、大国ロシアには気を付けなければならないという判断に達します。

また、当時のロシアは不凍港(一年中凍らない港)を持っておらず、年のうち数か月の間は経済活動や軍事活動を制限せざるを得なかったようで、不凍港を確保したかったようです。

そのためにロシアは、北海道と朝鮮半島のすぐ北のサハリン、ウラジオストクまで南下していました。

それで、海を挟んだ隣国、朝鮮半島がロシアに襲われた次は、日本が支配下に置かれる可能性があることを見越した明治政府は、朝鮮がロシアの支配下に入らない手立てを考えます。

 

 

 

 ロシアの南下政策に対抗して、隣国の朝鮮半島と国交を結ぼうとした日本 

 

 

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しかし、清国は朝鮮を属国と考えており、一方のロシアは朝鮮を影響下に置きたいと考えていた状況にあって、日本はまず朝鮮と国交を結ぼうとします。

明治政府の意図は、ただ国交を結ぶというよりは、朝鮮だけではなくアジアの他の国とも平等な条件で条約を結び、話し合いをしっかりできる関係を築くことによって、西洋の列強に対抗していこうという狙いがあったのだと思います。
 
それで、まず、明治維新を迎え、新しい政権になった日本は、朝鮮との国交を改めて結ぶために、外交文書を送ります。

それまでの徳川幕府と朝鮮との関係は、将軍が変わると朝鮮の通信使があいさつに来るなど、対馬の宗氏を通じてやりとりをしていました。

しかし、その明治政府の外交文書の中で、”大日本帝国”、”天皇”といった江戸時代には使っていなかった言葉を使い、今の日本の現状を伝えたのですが、江戸幕府の時代ではなくなったことを朝鮮側が理解できなかったのか、その外交文書は日本に突き返されます。

そこで、日本は朝鮮を属国としている清国と交渉をすることにしたところ、この交渉は順調に進み、1871年に平等な条件の下に条約を結びました。

 

 

 

 日本と国交を結ぶことを拒む朝鮮・・・ついに、日本と朝鮮との間で、江華島事件が起きる

 

 

しかし、なぜ朝鮮は日本の外交文書を何度も突き返したのか・・・、日本が明治になったという状況をただ理解できなかっただけではないかもしれません。

1866年、アメリカ合衆国の軍艦ジェネラル・シャーマン号が、満潮と干潮の差が激しい浅瀬になっているところに乗り上げた船が動かなくなっていたところ、朝鮮の人々に焼打ちにされるという出来事がありました。

また、別の時、フランス人宣教師を9人はかりを同じ目に合わし、そのことで抗議に向ったフランスの船も浅瀬に乗り上げ、追い返したことで、朝鮮としては自分たちは欧米諸国を追い返したと思って、自信を持っていたのでしょうか。

 

 

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このようなこともあり、国書を突き返す朝鮮に対し、当時の日本政府内では元武士であった人も多かったこともあり、「征韓論」といって武力によって朝鮮に対し圧力をかけるべきではないかという考えも出てきました。

そんな中、薩摩藩西郷隆盛は、まず私が武装せずに行ってみて、私がやられたら、武力でもって戦えばいいと言っていたそうです。

 

 

ところが、国交を結ぼうとしなかった朝鮮と、ついに条約を結ぶきっかけとなる江華島事件(こうかとうじけん)という出来事が起こります。

 

 

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1875年、日本は朝鮮西岸の航路を研究するために、朝鮮に対してあらかじめ、”このような旗を揚げていたら、それは日本の旗だから、水や食料を売ってほしい”旨を添えて、日本の旗を朝鮮に送っていました。

しかし、朝鮮へと出向いた日本の軍艦・雲揚号が、朝鮮西岸の航路を測量中、江華島の沖合いに停泊していたとき、飲料水を求めて陸地に近づいたところを、砲台から突然砲撃を受けました。

軍艦だった日本側も撃ち返し、さらに陸戦隊を砲台に送り込んで、朝鮮側の武器を没収すると、今まで日本の国書を突き返すなど日本を下に見ていた朝鮮側は驚いたのか、日本側に対して態度を一変します。

 

 

 

 江華島事件がきっかけで、日本は朝鮮と国交を結ぶことになったけれど・・・

 

 

これによって、日本の要望を拒否し続けていた朝鮮はこの事件をきっかけに、1876年、日朝修好条規を結びました。

 

 

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明治になって開国して、世界の情勢もわかってきた日本ですが、あと一つ問題だったのは大規模な海軍を有するロシアの存在でした。

日本だけが近代化していっても、ロシアが朝鮮を取ってしまうならば、日本にとってはとても危険であるというので、日本は朝鮮が近代的な国家になるための援助を始めます。

でも、そのことをよく思わない反日勢力もいたようで、朝鮮にある日本の大使館が襲われたりしました。

そういった騒ぎが起きる度に、清の軍が出てくるようになり、どうなっていったのでしょうか・・・

 

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今の日本の体制の基礎にもなっていた!!明治維新の改革を見るとわかる、明治政府の意図は?!

 

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 明治政府の基本方針「五箇条の御誓文」

戊辰戦争で、新政府側が幕府軍に勝利した後、明治政府は江戸の体制をどのように改革していったのでしょうか??

1868年4月、明治政府が新しく発足するにあたって、明治天皇から政府の基本方針、「五箇条の御誓文」が発表されます。

 

 

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これは明治天皇が発表したというよりは、明治天皇は当時まだ16歳でしたので、文章自体は福井藩士・由利公正が起草し、長州藩木戸孝允が編集をして成立しました。

これは天皇が神々に誓う形をとって発表され、天皇が国の中心であることを示し、公の議論を尊重した政治を行い、国民が団結して国を繁栄させることを掲げています。

 

 

 

6月、明治新政府は、アメリカ合衆国憲法福沢諭吉の「西洋事情」(福沢諭吉著)などをを参考にして、政府組織のおおすじを書いた政治体制を公布します。

 

 

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西洋のやり方も入れつつ、日本に合うどのような政治組織を作ったかというと、祭祀を行う神祇官と政治を司る太政官とに分けられた古代日本の政治体制を取り入れて、中央にすべての行政を集中させる中央集権国家を目指しました。

それで、太政官を最高官庁として、太政官の権力を立法・行政・司法の三権に分けて、さらに6省に分けて、2官6省の政治体制を創りました。

 

 

 

江戸時代の幕藩体制、明治には内閣制度が発足

それまでの江戸時代の幕藩体制では、3万石以上の大名は城を持つことができ、徳川将軍に忠誠を誓う大名たちは所有する領地と、その領地の人民と行政組織を合わせた「藩」の統治を任されていました。

それで、大名は行政権、立法権司法権、徴税権をもっていたので、今のように所得税国税として中央政府に納めるのではなく、藩の領地からの年貢は全て藩の税収として使うことができたことから、中央集権国家ではなかったとも言えるのです。

 

 

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政権を武家徳川家から朝廷に返す大政奉還(↑)が行われた後、1867年、京都御所の小御所会議にて、天皇の下で薩長の人たちによって最初の新政府が発足されてから、近代的憲法が出来上がって内閣の議会が開かれるまでには、およそ20年ほどかかっています。

例えば、明治国家が内閣制度を発足させて、伊藤博文が初代内閣総理大臣になったのは、明治元年から18年になった1885年でした。

その4年後の1889年に、「大日本帝国憲法」が発布されました。

そして、第1回衆議院議員選挙が行われて、第1回議会が召集されたのは、さらにもう1年たった1890年のことでした。

明治政府となった薩長の人たちが、新しい国に作り変えたい・・・そう思ってから、一国の制度を全く新しく作り変えるまでには、随分と時間がかかっているのですね・・・

 

 

 

明治の改革、版籍奉還と廃藩置県、そして富国強兵

明治政府は、藩による領地と人民の統治体制を終わらせようと、まず版(領地)と籍(人民)を朝廷に返上させる版籍奉還を行いました。

版籍奉還を願い出た藩主は、新政府から知藩事という地方行政官に任命されました。

けれども、依然として藩は残っていて、これでは日本国内の政治がまとまらないと考えた明治政府は、1871年、廃藩置県という制度を行い、その字の通り全国261の藩を廃して県を定めました。

 

 

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全国3府302県がまず置かれ、同じ年の末までには3府72県となりました。

 

 

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このほか、富国強兵というスローガンを掲げて、小学校教育の改革、徴兵令、税制の改革、官営模範工場の建設、交通や通信の整備、貨幣・銀行などの金融制度の整備などが進められました。

 

 

 

 まとめ

江戸時代のように鎖国をしていれば、藩ごとに違う政治をしていても良かったかもしれません。

でも、西洋の国が様々な国を植民地化していて、最後に日本も植民地化しようとしていた時代であったので、そうならないためには国の中で法律・政治・軍事を一か所でまとめて、西洋と対等に付き合っていける強い国作りを考えたのかなと思います。

今の時代は江戸時代と比べたら、食べる物も着るものも全てが進んでいて新しくなっているように感じるかもしれないけれども、明治政府が作った内閣の組織も、府県の体制も、今の日本の体制の基礎になっているんですね。

 

 

 

 

 

江戸城無血開城・・・幕府軍の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛との会談とは!?

 

 

 

 
幕府側と新政府側との戊辰戦争(1868年1月27日~30日)が始まって、その最初の鳥羽伏見の戦いからおよそ3か月後、1868年4月11日、幕府軍は新政府軍に対して無抵抗で江戸城を明け渡します。

 

 

 

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よく、江戸無血開城と呼ばれています。

 


薩長を中心とした新政府軍は、鳥羽伏見の戦いにおいて、朝廷の「錦の御旗」を掲げることによって朝廷公認の官軍であることを幕府側につきつけます。

それで、官軍に盾突くのは賊軍になるという教えを諸藩で受けていた幕府側が戦意を失ったことで、鳥羽伏見の戦いでは新政府軍の勝利となり、新政府軍はさらなる倒幕を成すべく、徳川の本拠地江戸へ向かいます。

 

 

その江戸へ向かう途中、新政府軍が駿府静岡市伝馬町)に達した時、幕府軍の指揮官である勝海舟は新政府軍の指揮官である西郷隆盛に交渉を持ち掛けます。

1868年3月9日に交渉を持ち掛けるのですが、勝海舟は側近の山岡鉄舟西郷隆盛のところへ行かせるのですが、西郷隆盛勝海舟使者であるとわかると、会談を受け入れます。

 

 

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江戸進撃を回避したいという幕府側の要望を受け入れた西郷隆盛は、その交渉で山岡鉄舟に対して条件を提示します。

徳川慶喜の身柄を備前藩に預ける。 江戸城を明け渡す。 軍艦をすべて引き渡す。 武器をすべて引き渡す。城内の家臣は向島で謹慎する。 徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく処罰する。 暴発の徒が手に余る場合は官軍が鎮圧する。

この条件の中に、江戸城を明け渡す条件が入っていたのです。

 

 

それから5日後、1868年3月14日、江戸の薩摩藩邸で、勝海舟西郷隆盛とが会談をします。

 

 

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そこで、勝海舟は、新政府軍参謀の西郷に、「寛大な処分を行うならば、抵抗することなく江戸城を明け渡す。」と提案します。

すると、江戸城開城についての考えを聞いた西郷隆盛は、「総督府に持ち帰って協議しますが、明日の進撃は取り止めます。」と答えました。

幕府の陸軍総裁である勝海舟は、人口150万人がいる江戸の町を戦火から守るため、江戸城を新政府軍に明け渡します。

このまま新政府軍と戦うならば、江戸に住む多くの人々が犠牲になっていたでしょうし、国内て内乱をすることによって財政悪化と国力低下にも繋がります。

また、当時は、いろいろな外国の勢力が日本に近づいていた時だったので、国内が争っている隙に、日本が西洋列強の植民地になってしまうことを阻止したかったのでしょうか。

 

 

この出来事に「無血」という名がついていることから、戦場で血を流した人はいるけれども、大量に処刑された人もいないのですが、有名人では新選組近藤勇軍艦奉行小栗忠順(おぐりただまさ)が処刑されました。

政権を朝廷に返して、新政府に従おうとする徳川慶喜に対し、幕府の中では戦うべきであるという考えであったのが軍幹奉行・小栗忠順であったそうです。

 

 

 

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小栗忠順は初めて世界一周をした日本人で、北海道の開発権を担保としてフランスからフランス式の軍艦や武器の購入するために、フランス側と借金の交渉もするなど、徳川幕府を第一と考えていたので、幕府軍の増強を考えていました。

それ以外では、戊辰戦争の最後となる五稜郭(函館)での戦いで、幕府軍の指揮官をしていた榎本武揚(えのもと たけあき)などは新政府で出世していることから、敵でありながら徳川家のために頑張っている姿勢を認めていた明治政府は寛容なところもあったということなのでしょう

 

 

 

 

 

 

 

水戸黄門で有名な徳川光圀が編纂した「大日本史」と、幕末にベストセラーとなった「日本外史」とは

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でも、なぜ水戸藩出身の徳川慶喜は、朝廷と繋がっている薩長に対して、それほど争う方針ではなかったのでしょうか?

そして、なぜ幕府の武士たちは、鳥羽伏見の戦いで、薩長軍が菊の紋が入った錦の御旗(にしきのみはた)を掲げると、戦意を喪失したのでしょうか?

 

 

幕末の時代に広まった尊王攘夷とは、「尊王」とは天皇・朝廷を敬うという意味で、「攘夷」とは外国を排斥するという意味です。

徳川慶喜が生まれた一橋家は水戸藩なのですが、徳川幕府が一番上だとされていた江戸時代において、水戸藩攘夷論が普及していた藩でした。

 

 

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水戸藩では、水戸黄門で有名な2代藩主・徳川光圀(とくがわ みつくに)のときに、後に「大日本史」と呼ばれる日本の歴史書を編纂する事業を始めました。

1657年に始まったこの編纂事業は、1906年までのおよそ249年間、行われていたそうです。

水戸藩では歴史書の編纂事業のための史局を設置して、資料や古典文学などを集めるために各地に学者を派遣し、徳川光圀も編纂業務にあたっていたそうです。

ですから、この大編纂事業を行った水戸藩では、「大日本史」の歴史観藩士らに普及していました。

 

まず「大日本史」には、神武天皇から1392年の南北朝統一までの天皇の治世が書かれています。

それで、どんな歴史観かというと、徳川光圀は、日本に天皇が二人存在した南北朝時代については、南朝を正統として、楠木正成(くすのきまさしげ)を忠臣と讃えており、一方の北朝を建て武家政権を復興させた足利尊氏(あしかがたかうじ)を非難する方向に書かれています。

 

 

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鎌倉幕府が滅亡後、後醍醐天皇自らが政治を行うことによって、朝廷(天皇や公家)による政治を復活させようとしていましたが、そのことに不満を持った武士たちが有力武将・足利尊氏のところに集まってきました。

そして、足利尊氏と武士たちは、ついに後醍醐天皇に背いて反乱を起こします。

一方、後醍醐天皇は、新田義貞(にったよしさだ)や楠木正成(くすのきまさしげ)、北畠顕家(きたばたけあきいえ)らの力によって、足利尊氏の軍を倒そうとしました。

しかし、足利尊氏が九州などで武士を集めて、再び攻めてくると、後醍醐天皇は御所がある京都から奈良県・吉野に逃れます。

それから、足利尊氏側は新たに京都に光明天皇を立てたことによって、京都に光明天皇の朝廷である北朝と、吉野に後醍醐天皇の朝廷である南朝の二つの朝廷ができることになったのです。

その後、楠木正成らが亡くなると、1392年には足利義満南朝後亀山天皇を吉野から京都に戻るよう勧めて、天皇の位を北朝天皇に譲るようにし、60年あまりの南北朝の争いはおさまり、武家政権が復興します。

武家であり幕府である水戸藩では、幕府に背いた楠木正成を讃え、朝廷と幕府との間に戦が起こったら、朝廷に味方する という教えであったようです。

 

 

この他、「大日本史」よりももっとわかりやすく書かれた歴史書が、江戸時代の末期に流行しました。

武士の子弟が藩の学校で学ぶ歴史の教科書には、広島出身の歴史家・頼山陽(らいさんよう)の「日本外史(にほんがいし)」が多く採用されていました。

 

 

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この「日本外史」も、水戸藩の「大日本史」と同様に、武家政権を復興させた足利尊氏ではなく、幕府に背き南朝天皇を守った楠木正成らを英雄とする観点で書かれています。
 
この「日本外史」は、いろいろなところで印刷されて普及していき、幕末や明治初期にはベストセラーとなったようです。

それで、鳥羽伏見の戦いのとき、薩長軍が菊の紋の入った錦の御旗(にしきのみはた)を掲げると、幕府の兵たちが戦意を喪失したのは、各藩の学校で「日本外史」で教えを受けていたからかもしれません