幕府廃絶を命じられた最後の将軍・徳川慶喜の幕府軍と、新しい政権を作ろうとした薩長軍との戦いとは

 

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大老井伊直弼が亡くなった後、その井伊直弼に任命された、第14代将軍・徳川家茂も病気で亡くなります。  

 

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すると、またしても徳川家の跡継ぎを誰にするかという問題が挙がるのですが、適当な人材がいるはずもなく、数か月を経て、水戸藩一橋慶喜が第15代将軍となりました。   

 

 

1867年11月、徳川慶喜が将軍になると、まず政権を朝廷に返上する「大政奉還」を行いました。

薩摩藩長州藩が朝廷から討幕の許可を得ようという動きをしていたことを、事前に察知していた徳川慶喜は、幕府が自ら進んで朝廷に政権を奉還すれば、薩長の討幕を無くすことが出来ると考えたのかもしれません。

或いは、江戸幕府開府以来、政権を幕府に委任してきた朝廷(天皇や公家)には、実際に政治を運営する能力はあまりないかもしれないと考え、朝廷はおそらくその処置に困って、また幕府に政権を委任してくるだろうと見越したのでしょうか。

 

 

しかし、これでは困るのが、薩摩藩長州藩を中心とする倒幕勢力でした。

長州藩は下関でイギリスと戦ったことで、外国に対抗するよりは協力した方がいいのではないかと考えるようになっていて、一方の薩摩藩も、生麦事件の報復によって同じ様な方針になっていました。

そこに、薩摩藩西郷隆盛長州藩木戸孝允との話し合いの中に、土佐の脱藩浪士である坂本龍馬が仲介に入り、薩長同盟が成立します。

 

 

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それで、薩長の目的としては、幕府とは根本的に異なる、全く新しい政治システムを創ろうとしていました。

ですから、大政奉還によって、徳川慶喜が新政府に残ってしまうのではないかと考えた薩長は、朝廷との政権樹立を目指して、1867年12月、幕府や摂政、関白などを廃止し、総裁・議定・参与の三職を設置して、幕府に変わる新しい政府を発足させるという王政復古を宣言しました。
  
けれども、これは形だけであって、依然として、徳川慶喜は新政府軍よりも大きな軍事力と広大な領地を所有していました。

そこで、その王政復古を発令した夜、京都御所内の小御所において、当時まだ15歳であった明治天皇のもと、諸藩の藩主や公家達が集まって、御前会議が開かれることになりました。

その会議の結果、徳川慶喜が就いていた内大臣という官職を辞して、領地の返上が決定されたのでした。

そのとき、徳川慶喜は京都の二条城に滞在していたのですが、そのことを知らされると、薩長との衝突を避けるために、集結させていた多くの兵とともに大阪城に退きます。

徳川慶喜薩長と争わずに、新しい政権にも入れないものかと考えていたのかもしれないですが、それとは逆に、江戸では部下である幕府兵が江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにするという大きな事件が起こります。
  
幕府廃絶という王政復古に納得がいかないことや、江戸での焼き討ちの知らせを聞いて、士気が上がったのか、ついに大阪にいた幕臣たちは兵を挙げ、新政府軍と旧幕府軍戊辰戦争が始まることになるのです。

 

 

明治元年、1868年1月3日、幕府軍は「討薩の表(とうさつのひょう)」を掲げて、鳥羽、伏見の二街道を通り、大阪から京へ向かっていました。

この京都市伏見区は、月桂冠の本社など酒蔵がたくさんあります。

 

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それで、一方の薩長側は、現在の京都市伏見区から京都駅の方向に向かう鳥羽街道には薩摩の兵を、伏見街道には長州の兵を配置し、西郷自身は京の入口にあたる東寺に本営を置いて、護衛をしていました。

そこへ、鳥羽街道に来た幕府側と護衛をしていた薩摩側が、通過を巡ってと押し問答を続けていたところ、薩摩側が一発の砲撃をしました。

これをきっかけにして、伏見方面でも戦闘が始まり、鳥羽・伏見の戦いが始まりました。
  
薩長軍が約3000に対し、幕府軍は約15000以上の兵力ですから、兵力から考えても、幕府軍の方が有利に見えますが、薩長側は最新武器を備えていたことで、一進一退の攻防を繰り広げました。
  
しかし、翌1月4日、薩長軍側が、菊の紋が入った「錦の御旗(にしきのみはた)」を掲げました。

それが意味することは、菊の紋は天皇の紋ですから、これに逆らうということは、朝廷公認の軍にたてついた賊軍になってしまうということで、戦意を喪失して総退却を余儀なくされたのです。

 

でも、なぜ徳川慶喜は、朝廷と繋がっている薩長に対して、それほど争う方針ではなかったのか?

そして、なぜ幕府の兵である武士たちは、鳥羽伏見の戦いで薩長軍が菊の紋が入った錦の御旗(にしきのみはた)を掲げると、戦意を喪失したのでしょうか?

何か理由があるようですが、何なのでしょう・・・・

 

 

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アメリカから開国を迫られた大老・井伊直弼・・・そのときの決断が、日本を二分した!!?

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1853年、開国を要求していたアメリカと日米和親条約を結んだことで、およそ260年間続いた鎖国体制は終わることになっていきました。

続いて、1858年には、アメリカ領事のハリスが、さらに神奈川、長崎、新潟、神戸の4港を開港するように日本に要求してきました。

 

 

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そのとき、ハリスは大老井伊直弼(↑)に対して、イギリスやフランスの危険性について説いたそうで、これに危機感を感じた直弼は孝明天皇の許可を得ずに、勝手に日米修好通商条約を結んだと言われています。

遡れば、誰かの許可を得ることなく、江戸幕府鎖国を始めていますし、天皇の許可を得る得ないの法律があったわけではないけれども、教養として常識として天皇のことを学んでいる武士がたくさんいたことから、天皇の許可を得ないで行った井伊直弼の行動は反感を招くことになりました。

 

 

この日米修好通商条約は、領事裁判権を認め、関税自主権がないという不平等なものであったこともあり、井伊直弼の勝手なやり方に反発する人々がたくさん出てくることになります。

日米修交通商条約の調印から5日後の1858年6月、水戸藩徳川斉昭(なりあき)は定式ではない日に江戸城に参内して、井伊直弼の責任を問いました。

けれども、井伊直弼は「政局を乱した」として、斉昭とその息子たちを謹慎処分に処しました。

この他にも、反対派であるおよそ100人の人々を次々に処罰していったこの出来事は、安政の大獄と呼ばれています。

こういったことがきっかけとなり、尊王攘夷が全国に広がっていきます。

 

 

尊王攘夷とは何かというと、この頃の日本は、おおよそ二つに分かれていました。

外国を排除して、天皇主体の政治を行おうという「尊王攘夷派」と、幕府と公家が協力して政治を行っていこうという「公武合体派」です。

さらには、幕府の中も、将軍の跡継ぎ問題があったことで、二つに分かれることになります。

1857年、第13代将軍・徳川家定の二人の正室が早く亡くなったこともあり、三人目の正室として薩摩藩出身の篤姫が迎えられました。

 

 

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しかし、後継ぎができなかったことで、将軍の跡継ぎを巡って、二人の跡継ぎ候補が挙げられました。

一人目は、水戸藩主・徳川斉昭の子で、徳川家とは血縁が遠い一橋徳川慶喜で、二人目は、徳川家定とは従兄弟関係にあたる紀州藩主の徳川慶福でした。

それで、開国をした井伊直弼は、徳川慶福を支持する南紀派と呼ばれ、水戸藩主・徳川斉昭や有力な藩であった薩摩藩島津斉彬などは、一橋慶喜を支持する一橋派と呼ばれます。

この当時、アメリカだけではなく、ロシア帝国、イギリス、フランスなどの艦船が、鎖国体制をとっていた日本に来航してきたことで、今まで通りにいきたいという人たちもいれば、開国していいんじゃないかという人たちなど、外国にどう対応していくべきかと、様々な意見を持っていたということが分かります。

 

 

そして、今の言葉で例えるなら、内閣総理大臣くらいの地位である大老井伊直弼は、その権限を使って、天皇の許可なく終結したり、次期将軍を徳川慶福と決定してしまいました。

そして、自らの方針に逆らう人たち、それは徳川斉昭一橋慶喜をも含めて処罰するという強引なやり方であったので、納得のいかない人や恨みに思った人もいたとも言われていますが、水戸藩の浪士によって井伊が暗殺されてしまうのです。(桜田門外の変

 

 

 

 

 

 

 

明治以前、大きな戦争がなかった理由と、鎖国体制であった日本に訪れた大きな変化とは?!

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明治以前、世界との戦争が無かった理由としては、江戸幕府が、日本人の出入国及び貿易を管理・統制・制限した対外政策、”鎖国体制”をとっていたことも一番の要因だと思います。

 

 

もっとそれ以前の江戸時代やその前の戦国時代、日本と世界との関係や、戦争に使用される武器はどうだったのでしょうか。

江戸以前や江戸時代ころ、日本以外の世界の国から見るならば、物理学・化学・生物学・地球科学・天文学などの自然科学を理解して、それを用いた産業が発達しているのは西洋の国であって、アジアである東洋の国はそれほど発達していないと見なされていたようです。

ところが、日本での武器分野は劣っていたわけではないようで、1543年、ポルトガル人を乗せた中国の船舶が種子島に到着したことで最初の伝来とされている「鉄砲」があっという間に九州や日本のほかの国にも移っていき、改良した鉄砲の大量生産が行われていきます。

 

 

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具体的に、鉄砲を使った有名な戦いとしては、戦国時代の1575年、長篠の戦(↑)で、少ない軍勢であった織田信長はたくさんの鉄砲を備えていたことで、武田の軍勢を破ったとされています。

外国から入ってきたものを直ぐに吸収して、より良いものを作るという能力に優れていたことが伺える一面だと思います。

 

 

その後、キリスト教を容認していた織田信長の時代が終わると、キリスト教を容認しない豊臣秀吉徳川幕府の時代が訪れます。

徳川幕府の時代にも、明治以前の一揆としては最大規模のキリシタンによる島原の乱が起きたことで、それを抑える目的や、徳川幕府を倒す勢力が台頭しないようにという目的もあったのか、武器を作ったり改良する分野、物理学・化学・生物学・地球科学・天文学などの科学の進歩を止める方針を、幕府はとりました。

これによって、およそ260年間の江戸時代は、科学の進歩が止まっていたと言われていますが、農業などの技術の進歩は許されていたので、平和的な時代であったとも言えると思います。

しかし、そんな自然科学の発達が止まっていて、尚且つ鎖国をしていた日本に、1853年、アメリカの艦隊を引き連れてペリーが来航します。

 

 

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そのとき、アメリカの情報を必要としていた幕府に、アメリカとのやり取りがうまくいくように陰ながら協力したといわれている日本人が、よく知られているジョン万次郎です。

ジョン万次郎は土佐の漁師であったのですが、ある時、太平洋を彷徨って難破していたところを、アメリカの捕鯨船に助けてもらったと言われています。

そして、アメリカ人の船員に交じって仕事をしたりして、積極的に言葉を覚えていったそうで、その船の船長に気に入られたそうです。

それで、商船の学校に通わせてもらったそうで、その学校では首席となった言われています。

語学にも長けていたジョン万次郎が学校を卒業後、捕鯨船の船長に選ばれて、アメリカで仕事をしていたという状況から、鎖国体制をとっていた当時の日本人の中では、アメリカの事情をよく分かっていた人ではないかとされています。

しかし、日本に残してきた母にも会いたいと思っていたこともあり、どうしても日本に帰りたかったそうで、鎖国をしている日本にそのまま帰るわけにもいかず、最初は沖縄に上陸したのだそうです。

当時の沖縄は薩摩藩の管轄でしたから、上陸後、薩摩藩から取り調べを受け、そして薩摩藩島津斉彬のところに連れていかれました。

すると、島津斉彬がジョン万次郎にいろいろと質問すると、造船に関する知識や語学に優れていると判断されて、その後、江戸幕府長崎奉行所に送られます。

そこでは、あまりに英語が出来すぎていて、なおかつ日本語があまりしゃべれなかったために、スパイ容疑をかけられたことから、世に出て活躍することはあまりなかったのだそうです。

ですが、アメリカでは大統領にも会っていたというジョン万次郎が、江戸幕府の取り調べなどで言った、”アメリカは日本を取る気はありません”という情報は、幕府がアメリカとの交渉を判断するのに影響していたと言われています。

 

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ジョン万次郎