日清戦争になったきっかけは、何だったのか?!!

 

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アジアの領域を求めて、南に降りてくるロシア

 

 

 

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日本が幕末だったころ、世界の情勢は、西洋列強がアジアの国を次々に植民地化しており、日本も植民地化しようとしていました。

けれども、1871年12月から1873年9月まで、岩倉使節団アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国へ視察に行って、たくさんの情報も得た結果、明治政府はヨーロッパ諸国は日本を植民地にする気はないが、大国ロシアには気を付けなければならないという判断に達します。

また、当時のロシアは不凍港(一年中凍らない港)を持っておらず、年のうち数か月の間は経済活動や軍事活動を制限せざるを得なかったようで、不凍港を確保したかったようです。

そのためにロシアは、北海道と朝鮮半島のすぐ北のサハリン、ウラジオストクまで南下していました。

それで、海を挟んだ隣国、朝鮮半島がロシアに襲われた次は、日本が支配下に置かれる可能性があることを見越した明治政府は、朝鮮がロシアの支配下に入らない手立てを考えます。

 

 

 

 ロシアの南下政策に対抗して、隣国の朝鮮半島と国交を結ぼうとした日本 

 

 

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しかし、清国は朝鮮を属国と考えており、一方のロシアは朝鮮を影響下に置きたいと考えていた状況にあって、日本はまず朝鮮と国交を結ぼうとします。

明治政府の意図は、ただ国交を結ぶというよりは、朝鮮だけではなくアジアの他の国とも平等な条件で条約を結び、話し合いをしっかりできる関係を築くことによって、西洋の列強に対抗していこうという狙いがあったのだと思います。
 
それで、まず、明治維新を迎え、新しい政権になった日本は、朝鮮との国交を改めて結ぶために、外交文書を送ります。

それまでの徳川幕府と朝鮮との関係は、将軍が変わると朝鮮の通信使があいさつに来るなど、対馬の宗氏を通じてやりとりをしていました。

しかし、その明治政府の外交文書の中で、”大日本帝国”、”天皇”といった江戸時代には使っていなかった言葉を使い、今の日本の現状を伝えたのですが、江戸幕府の時代ではなくなったことを朝鮮側が理解できなかったのか、その外交文書は日本に突き返されます。

そこで、日本は朝鮮を属国としている清国と交渉をすることにしたところ、この交渉は順調に進み、1871年に平等な条件の下に条約を結びました。

 

 

 

 日本と国交を結ぶことを拒む朝鮮・・・ついに、日本と朝鮮との間で、江華島事件が起きる

 

 

しかし、なぜ朝鮮は日本の外交文書を何度も突き返したのか・・・、日本が明治になったという状況をただ理解できなかっただけではないかもしれません。

1866年、アメリカ合衆国の軍艦ジェネラル・シャーマン号が、満潮と干潮の差が激しい浅瀬になっているところに乗り上げた船が動かなくなっていたところ、朝鮮の人々に焼打ちにされるという出来事がありました。

また、別の時、フランス人宣教師を9人はかりを同じ目に合わし、そのことで抗議に向ったフランスの船も浅瀬に乗り上げ、追い返したことで、朝鮮としては自分たちは欧米諸国を追い返したと思って、自信を持っていたのでしょうか。

 

 

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このようなこともあり、国書を突き返す朝鮮に対し、当時の日本政府内では元武士であった人も多かったこともあり、「征韓論」といって武力によって朝鮮に対し圧力をかけるべきではないかという考えも出てきました。

そんな中、薩摩藩西郷隆盛は、まず私が武装せずに行ってみて、私がやられたら、武力でもって戦えばいいと言っていたそうです。

 

 

ところが、国交を結ぼうとしなかった朝鮮と、ついに条約を結ぶきっかけとなる江華島事件(こうかとうじけん)という出来事が起こります。

 

 

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1875年、日本は朝鮮西岸の航路を研究するために、朝鮮に対してあらかじめ、”このような旗を揚げていたら、それは日本の旗だから、水や食料を売ってほしい”旨を添えて、日本の旗を朝鮮に送っていました。

しかし、朝鮮へと出向いた日本の軍艦・雲揚号が、朝鮮西岸の航路を測量中、江華島の沖合いに停泊していたとき、飲料水を求めて陸地に近づいたところを、砲台から突然砲撃を受けました。

軍艦だった日本側も撃ち返し、さらに陸戦隊を砲台に送り込んで、朝鮮側の武器を没収すると、今まで日本の国書を突き返すなど日本を下に見ていた朝鮮側は驚いたのか、日本側に対して態度を一変します。

 

 

 

 江華島事件がきっかけで、日本は朝鮮と国交を結ぶことになったけれど・・・

 

 

これによって、日本の要望を拒否し続けていた朝鮮はこの事件をきっかけに、1876年、日朝修好条規を結びました。

 

 

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明治になって開国して、世界の情勢もわかってきた日本ですが、あと一つ問題だったのは大規模な海軍を有するロシアの存在でした。

日本だけが近代化していっても、ロシアが朝鮮を取ってしまうならば、日本にとってはとても危険であるというので、日本は朝鮮が近代的な国家になるための援助を始めます。

でも、そのことをよく思わない反日勢力もいたようで、朝鮮にある日本の大使館が襲われたりしました。

そういった騒ぎが起きる度に、清の軍が出てくるようになり、どうなっていったのでしょうか・・・

 

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