江戸城無血開城・・・幕府軍の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛との会談とは!?

 

 

 

 
幕府側と新政府側との戊辰戦争(1868年1月27日~30日)が始まって、その最初の鳥羽伏見の戦いからおよそ3か月後、1868年4月11日、幕府軍は新政府軍に対して無抵抗で江戸城を明け渡します。

 

 

 

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よく、江戸無血開城と呼ばれています。

 


薩長を中心とした新政府軍は、鳥羽伏見の戦いにおいて、朝廷の「錦の御旗」を掲げることによって朝廷公認の官軍であることを幕府側につきつけます。

それで、官軍に盾突くのは賊軍になるという教えを諸藩で受けていた幕府側が戦意を失ったことで、鳥羽伏見の戦いでは新政府軍の勝利となり、新政府軍はさらなる倒幕を成すべく、徳川の本拠地江戸へ向かいます。

 

 

その江戸へ向かう途中、新政府軍が駿府静岡市伝馬町)に達した時、幕府軍の指揮官である勝海舟は新政府軍の指揮官である西郷隆盛に交渉を持ち掛けます。

1868年3月9日に交渉を持ち掛けるのですが、勝海舟は側近の山岡鉄舟西郷隆盛のところへ行かせるのですが、西郷隆盛勝海舟使者であるとわかると、会談を受け入れます。

 

 

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江戸進撃を回避したいという幕府側の要望を受け入れた西郷隆盛は、その交渉で山岡鉄舟に対して条件を提示します。

徳川慶喜の身柄を備前藩に預ける。 江戸城を明け渡す。 軍艦をすべて引き渡す。 武器をすべて引き渡す。城内の家臣は向島で謹慎する。 徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく処罰する。 暴発の徒が手に余る場合は官軍が鎮圧する。

この条件の中に、江戸城を明け渡す条件が入っていたのです。

 

 

それから5日後、1868年3月14日、江戸の薩摩藩邸で、勝海舟西郷隆盛とが会談をします。

 

 

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そこで、勝海舟は、新政府軍参謀の西郷に、「寛大な処分を行うならば、抵抗することなく江戸城を明け渡す。」と提案します。

すると、江戸城開城についての考えを聞いた西郷隆盛は、「総督府に持ち帰って協議しますが、明日の進撃は取り止めます。」と答えました。

幕府の陸軍総裁である勝海舟は、人口150万人がいる江戸の町を戦火から守るため、江戸城を新政府軍に明け渡します。

このまま新政府軍と戦うならば、江戸に住む多くの人々が犠牲になっていたでしょうし、国内て内乱をすることによって財政悪化と国力低下にも繋がります。

また、当時は、いろいろな外国の勢力が日本に近づいていた時だったので、国内が争っている隙に、日本が西洋列強の植民地になってしまうことを阻止したかったのでしょうか。

 

 

この出来事に「無血」という名がついていることから、戦場で血を流した人はいるけれども、大量に処刑された人もいないのですが、有名人では新選組近藤勇軍艦奉行小栗忠順(おぐりただまさ)が処刑されました。

政権を朝廷に返して、新政府に従おうとする徳川慶喜に対し、幕府の中では戦うべきであるという考えであったのが軍幹奉行・小栗忠順であったそうです。

 

 

 

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小栗忠順は初めて世界一周をした日本人で、北海道の開発権を担保としてフランスからフランス式の軍艦や武器の購入するために、フランス側と借金の交渉もするなど、徳川幕府を第一と考えていたので、幕府軍の増強を考えていました。

それ以外では、戊辰戦争の最後となる五稜郭(函館)での戦いで、幕府軍の指揮官をしていた榎本武揚(えのもと たけあき)などは新政府で出世していることから、敵でありながら徳川家のために頑張っている姿勢を認めていた明治政府は寛容なところもあったということなのでしょう