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水戸黄門で有名な徳川光圀が編纂した「大日本史」と、幕末にベストセラーとなった「日本外史」とは

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でも、なぜ水戸藩出身の徳川慶喜は、朝廷と繋がっている薩長に対して、それほど争う方針ではなかったのでしょうか?

そして、なぜ幕府の武士たちは、鳥羽伏見の戦いで、薩長軍が菊の紋が入った錦の御旗(にしきのみはた)を掲げると、戦意を喪失したのでしょうか?

 

 

幕末の時代に広まった尊王攘夷とは、「尊王」とは天皇・朝廷を敬うという意味で、「攘夷」とは外国を排斥するという意味です。

徳川慶喜が生まれた一橋家は水戸藩なのですが、徳川幕府が一番上だとされていた江戸時代において、水戸藩攘夷論が普及していた藩でした。

 

 

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水戸藩では、水戸黄門で有名な2代藩主・徳川光圀(とくがわ みつくに)のときに、後に「大日本史」と呼ばれる日本の歴史書を編纂する事業を始めました。

1657年に始まったこの編纂事業は、1906年までのおよそ249年間、行われていたそうです。

水戸藩では歴史書の編纂事業のための史局を設置して、資料や古典文学などを集めるために各地に学者を派遣し、徳川光圀も編纂業務にあたっていたそうです。

ですから、この大編纂事業を行った水戸藩では、「大日本史」の歴史観藩士らに普及していました。

 

まず「大日本史」には、神武天皇から1392年の南北朝統一までの天皇の治世が書かれています。

それで、どんな歴史観かというと、徳川光圀は、日本に天皇が二人存在した南北朝時代については、南朝を正統として、楠木正成(くすのきまさしげ)を忠臣と讃えており、一方の北朝を建て武家政権を復興させた足利尊氏(あしかがたかうじ)を非難する方向に書かれています。

 

 

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鎌倉幕府が滅亡後、後醍醐天皇自らが政治を行うことによって、朝廷(天皇や公家)による政治を復活させようとしていましたが、そのことに不満を持った武士たちが有力武将・足利尊氏のところに集まってきました。

そして、足利尊氏と武士たちは、ついに後醍醐天皇に背いて反乱を起こします。

一方、後醍醐天皇は、新田義貞(にったよしさだ)や楠木正成(くすのきまさしげ)、北畠顕家(きたばたけあきいえ)らの力によって、足利尊氏の軍を倒そうとしました。

しかし、足利尊氏が九州などで武士を集めて、再び攻めてくると、後醍醐天皇は御所がある京都から奈良県・吉野に逃れます。

それから、足利尊氏側は新たに京都に光明天皇を立てたことによって、京都に光明天皇の朝廷である北朝と、吉野に後醍醐天皇の朝廷である南朝の二つの朝廷ができることになったのです。

その後、楠木正成らが亡くなると、1392年には足利義満南朝後亀山天皇を吉野から京都に戻るよう勧めて、天皇の位を北朝天皇に譲るようにし、60年あまりの南北朝の争いはおさまり、武家政権が復興します。

武家であり幕府である水戸藩では、幕府に背いた楠木正成を讃え、朝廷と幕府との間に戦が起こったら、朝廷に味方する という教えであったようです。

 

 

この他、「大日本史」よりももっとわかりやすく書かれた歴史書が、江戸時代の末期に流行しました。

武士の子弟が藩の学校で学ぶ歴史の教科書には、広島出身の歴史家・頼山陽(らいさんよう)の「日本外史(にほんがいし)」が多く採用されていました。

 

 

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この「日本外史」も、水戸藩の「大日本史」と同様に、武家政権を復興させた足利尊氏ではなく、幕府に背き南朝天皇を守った楠木正成らを英雄とする観点で書かれています。
 
この「日本外史」は、いろいろなところで印刷されて普及していき、幕末や明治初期にはベストセラーとなったようです。

それで、鳥羽伏見の戦いのとき、薩長軍が菊の紋の入った錦の御旗(にしきのみはた)を掲げると、幕府の兵たちが戦意を喪失したのは、各藩の学校で「日本外史」で教えを受けていたからかもしれません