アメリカから開国を迫られた大老・井伊直弼・・・そのときの決断が、日本を二分した!!?
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1853年、開国を要求していたアメリカと日米和親条約を結んだことで、およそ260年間続いた鎖国体制は終わることになっていきました。
続いて、1858年には、アメリカ領事のハリスが、さらに神奈川、長崎、新潟、神戸の4港を開港するように日本に要求してきました。
そのとき、ハリスは大老・井伊直弼(↑)に対して、イギリスやフランスの危険性について説いたそうで、これに危機感を感じた直弼は孝明天皇の許可を得ずに、勝手に日米修好通商条約を結んだと言われています。
遡れば、誰かの許可を得ることなく、江戸幕府は鎖国を始めていますし、天皇の許可を得る得ないの法律があったわけではないけれども、教養として常識として天皇のことを学んでいる武士がたくさんいたことから、天皇の許可を得ないで行った井伊直弼の行動は反感を招くことになりました。
この日米修好通商条約は、領事裁判権を認め、関税自主権がないという不平等なものであったこともあり、井伊直弼の勝手なやり方に反発する人々がたくさん出てくることになります。
日米修交通商条約の調印から5日後の1858年6月、水戸藩の徳川斉昭(なりあき)は定式ではない日に江戸城に参内して、井伊直弼の責任を問いました。
けれども、井伊直弼は「政局を乱した」として、斉昭とその息子たちを謹慎処分に処しました。
この他にも、反対派であるおよそ100人の人々を次々に処罰していったこの出来事は、安政の大獄と呼ばれています。
こういったことがきっかけとなり、尊王攘夷が全国に広がっていきます。
尊王攘夷とは何かというと、この頃の日本は、おおよそ二つに分かれていました。
外国を排除して、天皇主体の政治を行おうという「尊王攘夷派」と、幕府と公家が協力して政治を行っていこうという「公武合体派」です。
さらには、幕府の中も、将軍の跡継ぎ問題があったことで、二つに分かれることになります。
1857年、第13代将軍・徳川家定の二人の正室が早く亡くなったこともあり、三人目の正室として薩摩藩出身の篤姫が迎えられました。
しかし、後継ぎができなかったことで、将軍の跡継ぎを巡って、二人の跡継ぎ候補が挙げられました。
一人目は、水戸藩主・徳川斉昭の子で、徳川家とは血縁が遠い一橋徳川慶喜で、二人目は、徳川家定とは従兄弟関係にあたる紀州藩主の徳川慶福でした。
それで、開国をした井伊直弼は、徳川慶福を支持する南紀派と呼ばれ、水戸藩主・徳川斉昭や有力な藩であった薩摩藩の島津斉彬などは、一橋慶喜を支持する一橋派と呼ばれます。
この当時、アメリカだけではなく、ロシア帝国、イギリス、フランスなどの艦船が、鎖国体制をとっていた日本に来航してきたことで、今まで通りにいきたいという人たちもいれば、開国していいんじゃないかという人たちなど、外国にどう対応していくべきかと、様々な意見を持っていたということが分かります。
そして、今の言葉で例えるなら、内閣総理大臣くらいの地位である大老・井伊直弼は、その権限を使って、天皇の許可なく終結したり、次期将軍を徳川慶福と決定してしまいました。
そして、自らの方針に逆らう人たち、それは徳川斉昭や一橋慶喜をも含めて処罰するという強引なやり方であったので、納得のいかない人や恨みに思った人もいたとも言われていますが、水戸藩の浪士によって井伊が暗殺されてしまうのです。(桜田門外の変)